『有頂天音吉(うちょうてんのんきち)』 まとめその2

急の夕立ちがあって、音吉は太鼓持ちの佐吉と急いで長屋へ舞い戻って来た。両国に相撲を見に行くつもりだったが、濡れるのが嫌だから簡単に諦めた。
佐吉は大そう楽しみにしていたみたいで、濡れた髪の毛を手拭いでバサバサッと無造作に拭いながらブツクサ文句を言っている。
この佐吉というのは、ナリは小僧みたいな格好をしているが、本当は女である。身体は女で生まれて来た癖に男の心を身に付けてしまったから厄介だ。最近は身体もすっかり女らしさが出て来て、胸にサラシを巻いたりなんかして、女である事を一生懸命隠していた。
そんな佐吉だから、実の母親からは小言が耐えなかったし、子供の頃から心無い近所の悪ガキどもに苛められたりもした。
何ともややこしい境遇に育っていた佐吉だったが、音吉は別にそれを重く受け止めるわけでも
なく、全てにおいて拘りのない人だったので彼女いや彼も付き合い易かったのか、いつも金魚
のフンみたいに音吉の後をくっ付いていた。
佐吉は子供の頃から整った顔をしていて、今じゃスッカリ美丈夫といった雰囲気を醸し出していた。連れて歩けば、女受けも良かった。陽気にキャッキャッと笑い、更にとても良い声で唄った
ので、佐吉がいると座はいつでも盛り上がった。だもんだから、音吉は音吉でこの奇妙な歳下の
親友が大変好きであった



「ちょっとくらい濡れたって良かったのれす。相撲見たかったのれす。雨だって帰って来た
途端に止んじまったじゃねえでれすか」
「あんなもんはそこまでして見るもんじゃないにょん」
「大体ねぇ のんさんは根性って奴がカラッキシねえのれす」
「根性っていう奴はいざっていう時の為に取っておくにょん。安売りするもんじゃあないにょん」
「屁理屈だね。のんさんが力仕事してる所なんか見た事もないのれす」
「のんは力よりも技術で勝負する方だにょん」
相撲好きというのは、概して自分で取るのも好きなものだ。佐吉も御多分に洩れなかった。
「そうれすか…じゃあ、それを証明して欲しいのれす。一番手合わせ願いたいのれす」
「イイのかにょん?痛い思いをするのはお前さんだにょん」
「バカにしてもらっちゃあ困るのれす」
単純な二人だったから、そうなれば話は早い。狭い長屋の一室に無理矢理即席の土俵もどきを
拵えて、気分はスッカリ東西両横綱である。


「ハッキヨーイ ノコッタ!」
二人一緒に行司の掛け声を張り上げると勝負は始まった。
子猫のじゃれ合いみたいなツッパリの応酬が暫く続いて、どちらが仕掛けたか、いつの間にやらがっぷり四つ。ギューッとお互いの身体を引き寄せ、背丈の差のせいで佐吉の胸部に音吉の顔が埋もれるカタチとなった。
(「…!?」)
その刹那、思い掛けぬ感触が伝わって、音吉の身体に稲妻が走った。
(「にょんにょんにょん!フニャフニャと柔らかいにょん!」)
音吉は佐吉が実は女である事を急に思い出した。いや、ずっとアタマの片隅にはあったのだけれど、この小僧がもう十四歳でスッカリ女の身体を手に入れていたとは、これっぽっちも考えてなかった。
そんな音吉の動揺など意に介さず、佐吉は更に音吉を引き寄せようとする。彼は彼で勝負に夢中だったのだ。若い女の放つ甘酸っぱい汗の匂いが音吉のアタマを更に朦朧とさせた。


(「これはマズイ事になったにょん…」)
こういう時、アタマでは分かっていても身体の反応を制御するには、技術を持ってしても、或いは根性を持ってしても、どうにかなるものではなかった。
つまり、だ。音吉さんのにょん吉がにょきにょきしてしまったのである。
(「ん?何かツンツン当たっているのれす…」)
音吉の下腹部のツッパリが佐吉にもハッキリ分かった。
佐吉に男女の営みの経験などあるはずもなく、そんな気分にすらなった事はなかったが、男がそういう状態になるという事は何とはなしに聞いていた。
(「音吉さん、もしかして…」)
見ると、音吉はややヘッピリ腰の体勢でハアハアとアタマを真っ赤にして顔を自分の胸に埋めている。それが相撲のせいなのか、はたまた別の理由があってなのか、佐吉には判断しかねた。
がっぷり四つに組んだ二人の間に気まずい沈黙が流れたー。


とその時、長屋の戸がガラガラッと開いて、風呂屋帰りの湯上がり姿のお憂さんが右手に団扇を
左手に風呂桶を抱えて入って来た。
お憂さんの目の前にがっぷり組んで微動だにしない二人の姿があった。
「何だい?相撲行かなかったのかい?」
二人は黙っている。
「あっ、そうか。行かない代わりに自分達で相撲取ってるのか。全く二人とも子供だねぇ。
よしっ、このお憂さんが行司になってあげるよ。ハッキヨーイ!」
その掛け声が良いキッカケとなって、佐吉は音吉を右の上手で思いっきりぶん投げた。
音吉はニョキニョキしているにょん吉がばれないように腰をかがめてダンゴムシみたいに
ゴロゴロと部屋の片隅に転がった。

「勝負あり!佐吉ー佐吉ー」
お憂は手にしていた団扇を軍配に見立てて、佐吉の勝利を告げた。
「お憂さん!御免なすって!」
顔を赤らめた佐吉は勢い良く外へ飛び出して行った。
お憂は何が何やら状況が全く掴めない。
「別に怒っちゃいないよ!部屋の中で相撲取るくらいさ!男の子はヤンチャぐらいが丁度良いのさ!」
お憂は遠ざかって行く佐吉の背中にそう声を掛けた。
部屋の片隅では相変わらずダンゴムシの音吉が背中を見せている。
「情けないねぇ のんさん。大丈夫?痛くない?」
それが投げられたせいなのか、はたまた別の理由があってなのか、音吉は上の空に答えた。
「にょんにょんにょん…良い心持ちだにょん」
「何言ってんだい。気持ち悪い」

いやはやいやはや、『勝負に勝って相撲に負けた』とは、このような事を言うのだろう。
音吉さんの有頂天な日々はまだまだ終わりそうにはなさそうだ。