『有頂天音吉(うちょうてんのんきち)』 まとめその1

『有頂天音吉(うちょうてんのんきち)』

呉服屋の若旦那の音吉(のんきち)は放蕩三昧の暮らしの果てにとうとう父親に勘当され、今じゃ長屋で貧乏暮らしの毎日を送っていた。とは言っても、芸者のお憂(ゆう)と暮らしていたから、ちっとも寂しくはなかった。
勘当された最大の理由は、親が勝手に決めていた許嫁よりも、このお憂を正妻に迎えたいと頑として譲らなかったからだ。
そんなこんなで音吉は定職にも就かず、お憂の稼ぎを当てにして、その名の通りノンキに生きていた。
深川の売れっ子だったお憂は音吉とは真逆の性格で、しかしこれもまたその名の通り、世を憂いてばかりいた。だからこそなのか、音吉の大らかさに強く惹かれ、いつしかお客と芸者以上の関係になってしまっていた。


音吉さんも変に誠実な所があって、お憂が仕事を終えて帰って来るまで、自分も起きてチビチビやっていた。お憂が朝帰りになっても、蒲団すら敷こうとはしなかった。こういう所がこの人の憎めない所だった。
東の空も白み始めた頃、お憂さん、へべれけでガラガラッと部屋の扉を開けた。
「おお、お憂さん、今日もご苦労様」
「何が『今日もご苦労様』だ、バカヤロウ!」
「お憂さん、一体どうしたにょん?」
「のんさんの噂、ちょいと小耳に挟みましてねえ」
「それで?」
「先月の七夕祭りの日、彩千代(あやちよ)さんと何してたんだ!」
「やましいことはしてないにょん 彩千代さんが好きだって言うから、浮世絵を見に浅草まで二人で行っただけだにょん。夜には星空を眺めて…」
「アタシが一生懸命お客の相手をしている時に、よくもまあヌケヌケと…。大人の男と女が浮世絵と星空を見るだけ?誰が信じるんだい、そんな戯れ言をさあ」
「そうやって悪い方悪い方に傾いていくのは、あんたの悪い癖だにょん」
「へんっ、悪うござんしたねえ。アタシのような未熟者じゃあ、どうせ音吉さんみたいには悟りを開けませんよ!ふんっ」



「お憂さんお憂さん。 怒って真っ赤になったそのお顔もまた一興」
と言って、音吉は母に縋り付く子供のようにガバっとお憂を抱き締めた。
「何するんだ!やめろ!アタシは怒っているんだよ!」
「にょんにょんするにょん。にょんにょんすれば嫌なことなんか全部忘れるにょん」
音吉は強引にお憂の唇を塞いだ。
「馬鹿っ んん はぁ………」
「いいにょん いいにょん お憂さん その気になったみたいだにょん」
「のんさん、ずるいよ。もう…」
「お憂、蒲団を敷くにょん」
「…うん、分かった」
外では通学途中の学生さんの自転車チリリンの音が響き始めている。
いやはやいやはや、こんな朝もはよから、深川の売れっ子芸者と夜の営みとは、なんとも羨ましい限りである。音吉さんの有頂天な日々はまだまだ終わりそうにはなさそうだ。